Interview #
12
2025
年
9
月
田中聡
Satoshi TANAKA
ディオントーキョー
代表取締役
経営者として数々の経験を重ねてきた田中聡さん。2021年9月にサーチファンド・ジャパン(SFJ)のサーチャーとして活動を始め、2023年4月には株式会社ディオントーキョーを承継しました。今回は、当時投資担当者として田中さんに伴走した巻島さん(現クラフトバンク勤務・SFJ監査役)とともに、その挑戦の軌跡を振り返ります。自由ゆえの苦しみ、そして経営者としての覚悟に迫ります。
―まず、サーチファンドに挑戦される前のキャリアについてお聞かせください
(田中)最初に入社したのは、ベンチャー・リンクという会社でした。牛角チェーンやゴルフパートナー、タリーズコーヒーなどを日本中に広めていった、FC事業を支援する会社です。私は立地開発部に所属して、出店候補地を探し、地主さんに提案して回っていました。断られることの方が圧倒的に多かったですが、ある時ふとしたご縁でOKをもらえ、実際に店舗が完成してオープンすると、アルバイトを含めて30人以上の雇用が一度に生まれる。その瞬間の達成感は本当に大きかったですね。私は一社員でしたが、支援した会社が次々と上場していくのを間近で見ました。上場を目指す企業がどのように成長していくのか、そのダイナミズムを肌で感じ、「自分もいつか会社を上場させる人材になりたい」と思うようになりました。
ただ、その過程で失敗もありました。数字だけを見て組織を崩壊させてしまった経験があります。当時25歳で若かったこともあり、組織づくりを軽視し、結果としてチームがうまく機能しなくなった。後に経営者になった時、この失敗の教訓は何度も頭をよぎりました。
―その後は洗車事業を営んでいる「ジャバ」へ?
(田中)そうです。ジャバという会社に入り、最初は立地開発を担当。その後、フランチャイズ加盟の管掌役員を任されました。8店舗からスタートして、6年で70店舗にまで拡大し、證券会社と一緒に上場準備を進めていました。
しかし、色々なことが重なり、上場はかないませんでした。32歳のときです。悔しさで押し潰されそうになり、次の働く先も決まっていない中で役員を辞任し会社を去りました。「本業一本でやっていくのはリスクが大きい」「自分はなんちゃって取締役に過ぎなかった」と強く痛感しました。この挫折が、その後の私のキャリアの方向性を大きく変えました。
―その後、日本M&Aセンターに転職されたのですね
(田中)はい。当時、堀江貴文氏が「M&Aで成長する」という話をしていて、「なるほど、こういう手段があるのか」と興味を持ちました。インターネットで「M&A」と検索して出てきたのが日本M&Aセンターです。説明会で三宅社長の話を聞き、M&Aの買手が上場企業が多いことも知り、ここなら上場企業の意志決定のダイナミズムをもう一度学ぶことができる、「ここだ」と思いました。
ただ、入社して半年間は地獄のようでした。知識不足で上司に叱られ続け、「お前、取締役をやっていたって言うけど、M&Aのこと全然わかってないじゃないか」と怒鳴られる日々。自分の無力さを再び痛感しました。しかし、半年後に初めてディールを成立させたとき、一気に状況が変わりました。そこからは上場企業の社長や、地方の名門企業の経営者と会えるようになり、多くの学びを得ました。
約4年間の在籍でしたが、経営者がどう判断し、どう会社を動かしているのかを直接見られたことは大きな財産です。ただ、それまで組織を動かしてきた自分にとっては、「やはり自分は組織を率いてチーム戦で戦う人材でありたい」と改めて思うようになりました。
―そこで、次はペット業界に?
(田中)はい。アイペットというペット保険会社です。正直、当初はペットにも保険にも知見はありませんでした(笑)。でも、当時のアイペットは業界2位の立場。そこから1位を目指す挑戦に強く惹かれました。入社1年後に、営業統括を任され、全国のペットショップや代理店を回り、厳しい交渉を繰り返しました。
組織マネジメントでは、毎月の営業会議で社員にA4で5,6枚のレターを書き、考えていることを共有しました。その後、営業本部長となる人材を育て上げて、自身は常務取締役として経営全般を見させていただきました。結果的に、入社8年後に上場も果たしました。20代のころに夢見ていたことは一応実現できたな、と感じました。
―夢見たことを実現できて、その後のキャリアはどうされたのでしょうか?
(田中)今度は所謂プロ経営者として、経営者側で何ができるかでキャリアを考えようと思い、縁あって、とあるペットショップチェーンで社長を務めました。約2年務めましたが、売上を約2倍、利益も約5倍に拡大させました。品質管理を徹底し、また、ガバナンスの整備に奔走しました。「真っ当な経営をする」ことの大切さを改めて感じましたね。
ただオーナーとの方向性の違いもあり、2年で退任。雇われ社長の難しさを痛感しました。
-怒涛の人生ですね。その後、ついにサーチファンドに出会うことになるのですね。サーチファンドを知ったきっかけから教えてもらえますか?
(田中)経営を体系的に学び直したいと思い、東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラムに通っていた頃、日本M&Aセンターの三宅社長とランチをした際にサーチファンドという概念を教えてもらいました。2021年のことです。
-なるほど。その後田中さんはSFJのサーチャーとして活動することとなります。田中さんの経歴を見ていると、プロ経営者として活躍し続ける道もあったと思いますが、なぜサーチャーになられたのでしょうか?
(田中)三宅さんのお話を聞いていてとても印象に残っていたのが、日本では黒字の企業が年間数万社も廃業している、という話です。事業承継が、日に日に、日本の社会課題になっていく中で、サーチファンドは、優秀な人材が事業を継いで再度グロースさせていくモデルだと理解しました。ここなら自分の経験を活かしながら社会課題の解決にも資することができると感じましたので、詳しく話を聞いてみようと思い、SFJの説明会にも参加しました。
仰る通り、通常のPEファンドの投資先などでプロ経営者として経営することも選択肢にはありましたが、やはり株主の意向に縛られるリスクがあります。その点、サーチファンドは自由裁量で承継先を探し、自分の責任で経営に挑める。この塩梅が「ちょうどいい」と思いました。
-その中でSFJのサーチャーになった理由はどこにあるのでしょうか?
(田中)伊藤さん自身が中小企業の経営を一巡されていて、よく実態を理解されていることも大きかったですし、巻島さんと話していて、「自分が良いと思った会社を納得いくまで焦らず探索してください」というメッセージをいただいて、非常に地に足をつけて活動できる座組だなと感じたからですね。
-巻島さんは当時、投資家として田中さんを支援していました。支援を決めた背景は何だったのでしょうか?
(巻島)田中さんは経営者として二、三周経験されており、経営者マインドをしっかり持っていました。資金繰りが厳しい局面で「自腹を切ってでも会社を守る」と自然に言える人。その安心感はとてつもないものがありましたので、偉そうな言い方になってしまい恐縮ですが、田中さんが伸び伸び経営できる環境を用意してあげれば、絶対に会社を成長させられる、という確信がありました。
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▼田中聡氏(ディオントーキョー代表取締役)連載インタビュー
vol.1 | 挫折と挑戦、その先に ―プロ経営者が選んだサーチファンド
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